映画「海難1890 ~日本人が知らない奇跡の実話~」 @映画5
映画を観て感動したことって ありませんか?
コロナで映画もなかなか観られないので、2016年に観て感動した映画のお話をします。
ストーリー1:1890年(明治23年) 「エルトゥールル号海難事故編」奇跡の始まり
1890年(明治23年)和歌山県 紀伊大島樫野地区(現:串本町)。
医師・田村(内野聖陽)は、貧しい者を診察することから村民の信頼を集めていました。
彼の傍には許婚を海難事故で亡くしたショックから口がきけなくなったハル(忽那汐里)が、助手として付き従っています。
9月、親善使節団として帰国の途についたエルトゥールル号は 台風にあい、樫野崎沖で座礁し水蒸気爆発を起こし沈没します。
住民たちは、岸壁で膨大な死体と船の残骸を発見します。
「どこのもんでも、かまん!助けなあかんのや!」
住民は嵐の中 命がけで救出活動を行い、田村とハルは救護所でけが人の手当てをします。
救護所に運び込まれた海軍機関大尉のムスタファ(ケナン・エジェ)は呼吸が止まっていましたが、ハルの懸命な心臓マッサージで息を吹き返しました。
犠牲者587名という大惨事で 生き残った乗組員は69名でした。
村長・佐藤(笹野高史)は、亡くなった人すべてに棺桶を用意して丁重に弔ってやりたいと言い、村民は蓄えてきたわずかな食料も提供して、生存者の看病をしました。
自分が生き残ったことに罪悪感を覚えた海軍機関大尉のムスタファは、やり場のない怒りを田村にぶつけます。
田村は漂着物を綺麗に磨いて、母国の遺族に返そうとする村人たちの姿をムスタファに見せます。
ムスタファの胸には、人を想う日本人の深い真心が刻まれました。
手厚く看護し 温かい対応を行ったことが、日本とトルコの友好の始まりとして有名なエピソードになっています。
ストーリー2:1985年「テヘラン法人救出劇編」奇跡の瞬間。
95年後の1985年のイラン・テヘラン。
空爆が続く地下避難壕でトルコ大使館の職員ムラト(ケナン・エジェ)と 日本人学校の教師・春海(忽那汐里)は出会い、協力してけが人の治療に当たりました。
別れ際、ムラトは春海の無事を祈りお守りを渡します。
やがてサダム・フセインが 48時間後にイラン上空を飛行するすべての飛行機を無差別攻撃すると宣言しました。
日本大使・野村(永島敏行)は救援機を要請しますが、日本では対応が難しい状況にありました。
他の国々では救援機が到着し、日本国民だけが取り残されていきます。
だが春海は子供たちを救うために奔走し、野村にトルコに救援機を頼むように進言します。
野村の要請を受けたトルコのオザル首相は、自国民を危険にさらすことになるという周囲の反対を押し切り、日本人の為 救援機の追加派遣を決断します。
トルコ航空は、自国民救援のための旅客機を2機に増やし、機長オルハン・スヨルジュらがフライトを志願しました。
ところがテヘランの国際空港には日本人の他に、救援機を待つトルコ人たちであふれていました。
その状況を見た日本人は、飛行機に乗ることを諦めかけます。
そのときムラトはトルコ人に対して、かつて日本人から自分たちが受けた真心の歴史を語り始めました……。
「今度は私たちの番だ・・・」
215名の日本人は飛行機に分乗し、期限ぎりぎりで危機を脱することができました。
全員、トルコ経由で無事に日本へ帰国できたのです。
トルコ宮殿での鑑賞
これはトルコ宮殿のプレミア上映会で 当時の安倍晋三総理大臣とトルコ共和国大統領の二人も鑑賞しました。
まとめ
和歌山県串本町では慰霊碑があり、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われています。
125年前の日本の村長さんが、こんなに遠くで亡くなった1人づつの棺を用意するシーン、貧しくとも 木が無くとも 人が人を憐れみ大切にする姿は とても美しいです。
救援機を飛ばす決断をした トルコ政府(当時の首相)の英断には頭が下がります。
また機長や乗務員が危険なフライトを 志願してくれたこと。
215名の日本人を 優先してトルコ機にのせてくれたトルコ人。
日本人なら 是非とも見てほしいと思います。
機会があったら ご覧になって下さい
と言うことで2つの過去の歴史でしたが、今日も日々歴史は作られています。
毎日の中で大切な決断の時に 後悔しないように行動していこうと思いました。
(*^_^*)ここまで読んでくださいまして、ありがとうございます。
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